「司法のしゃべりすぎ」の判事「判決短すぎ」減点評価
結論と無関係な記述は判決文から省くべきだと主張する「司法のしゃべりすぎ」の著書で知られる横浜地裁の井上薫判事(50)が、上司から「判決理由が短すぎる」とのマイナス評価を受け、「裁判官の独立を侵害された」とする不服申立書を同地裁に提出していたことが30日、分かった。
今年12月に最高裁の諮問委員会が、来春に任期切れとなる井上判事の再任の可否を判断する予定で、審議の行方が注目される。
井上判事の持論は、実は最高裁が憲法判断で多用してきた論法で、10月25日の日誌で述べた司法消極主義の流れに連なる考えが反映されています。
判決の結論に関係のない論評は、司法権という権力の無責任な言論になりがちであり、いちがいにこの持論を否定はできないでしょう。しかし、井上判事が完全に忘れていることが一つあります。お客さん=訴訟当事者のことです。
裁判というものは、法治国家にとっては私的紛争の最終的な解決の場として国家権力が提供するものですから、その結論がいかなるものであれ、訴訟当事者が納得しなければ、最終的に制度としての信頼が得られず、機能しません。判決文には、負けた当事者であっても納得せざるを得ないような説得技術が必要なはずです。
しかし、現実には、この「当事者の説得」という観点を忘れた独りよがりな判決文が非常に多いのが実情です。井上判事の考え方も、論理的には正しいかも知れませんが、裁判の本来の機能を置き去りにした観があり、訴訟当事者の不満が多いのもうなずける話です。
いろいろな考え方を持つ多様な裁判官が存在すること自体は健全なことですが、お客さんのことを顧みない裁判官はいらないでしょうね。
井上薫横浜地裁判事に関する再任可否事件について、私は新聞で報道されている限りにおいてしか詳細が分かりませんが、本事件に関する私の印象は法曹界が巧妙にして陰湿に仕組んだ同判事の追放劇であると思います。
私は縁あって同判事の著作の殆どを拝読しておりますが、理非曲直の仕分けの判断は極めて明快で的確であると感じております。一言で言えば、他人の頭ではなく自分の頭で物事を考える力があるということです。そして、恐らく同判事は最高裁よりも国家国民を明確に上位におく姿勢を貫いておるものと考えております。同判事が自著の中で繰り返し、裁判官に対する戒めの言葉として憲法76条③を引用しているからです。
私は、どんな憲法や法律であれ、それが現存する以上、それに対して最も忠実にあらんとする裁判官こそ最も信頼に値する裁判官であると信じております。「どんな悪法でも法は法である」という趣旨の言葉を残して毒を飲んで死んだソクラテスの教訓は今もって生きています。法律はいかなる国民に対しても公正に厳正に適用されるべきものです。いかなる事情があれ、aに適用しなかったことをbに適用することは間違いです。たとえ、その行為が最高裁で行なわれたとしても、間違いは間違いであるとはっきりといえる人物こそ真に裁判官の名に相応しいと言えるのではないでしょうか。
以上述べた趣旨から、井上判事に多少の問題があったとしても、同判事はその問題を遥かに上回る裁判官としての最高の長所をお持ちであると考えますので、司法の信頼の維持のため、同判事を断固として支持したいと思います。
投稿者 饗庭 道弘 : 2005年12月27日 18:21
だって自分の時の裁判官だったら嫌だもん。
だから総論賛成。
投稿者 総論賛成、各論反対 : 2006年03月01日 20:48